画家、批評家、歴史家たちからの尽きることのない高い評価は、さまざまな賛辞となって表現されている。『宮廷人』の著者19世紀はレオナルドの才能に対する賞賛がとくに高まった時期となった。これはイギリスで活動したスイス人画家19世紀にはレオナルドが残した膨大な手稿が、その絵画作品と同様に広く知られるようになった。レオナルドの類稀な知性への関心は、衰えるところを知らない。専門家によるレオナルドの文章の研究と解釈、絵画作品への最先端の科学技術を駆使した分析によってその業績が明らかにされ、さらには、記録には残っているものの現存しないとされる作品の探索も試みられている ルネサンスの芸術家「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は、万能の天才と称えられ、謎や伝説の多い芸術家としても知られます。レオナルドはどのような生涯を送り、どのような作品を生み出したのでしょうか?この記事では、レオナルドとその生涯、名言や代表的な絵画作品について解説します。目次レオナルド・ダ・ヴィンチ(イタリア語・英語: Leonardo da Vinci)(1452年~1519年)は、イタリア・ルネサンスを代表する芸術家で、「万能の天才」と呼ばれるほどにさまざまな分野で活躍しました。絵画においては人間復興を目指したルネサンスを体現するごとく、徹底したリアリズムで人物描写を行い、さらに彫刻家・建築家としても活躍しました。さらに、解剖学、機械発明などにおいても多くの手稿を残し、「万能の天才」と呼ばれます。加えて、歴史学者パオロ・ジョヴィオらの記録によれば、レオナルドは「並外れた美しい容姿」をした、華があって優美な人物だったとされ、巻き髪を胸元まで伸ばし、綺麗に整えていたといいます。レオナルド・ダ・ヴィンチとは、「ヴィンチ村のレオナルド」という意味です。出生名は「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」(ヴィンチ村のセルの息子のレオナルドという意味)だったとされますが、早い段階で「レオナルド・ダ・ヴィンチ」と名乗るようになりました。父親は先祖代々公証人の仕事をする裕福な家系でした。父の正式な名前は「セル・ピエロ・ディ・アントニオ・ディ・セル・ピエロ・ディ・セル・グイド」(グイドの息子のピエロ、さらにその息子のアントニオの息子のピエロという意味)という名前です。当時の慣習では、自分の祖先や父親の名前を「~の息子」という意味の「ディ」という語でつなげた正式な名前のほかに、職業などからつけたニックネームを持つのが一般的でした。レオナルドの名前はそのような慣習から外れた、珍しい名前を名乗っていたことになります。レオナルドは私生児として生まれて複雑な幼少期を送ったため、自分の名前から父親や先祖を外したのかもしれません。レオナルドの芸術家としての人生は、フィレンツェに出て、ヴェロッキオ(1435年頃~1488年)に弟子入りすることから始まりました。ヴェロッキオは彫刻、絵画、建築など多彩な才能を持ち、大きな工房を構えていました。レオナルドは、ヴェロッキオの多彩さと、古典美を描く革新的な手法や人体の解剖への興味を受け継ぎました。20代の後半に独立したレオナルドは、ミラノに移ってミラノ公に仕えます。この時代には多くの教会を設計し、代表作となる『最後の晩餐』の壁画も手掛けます。50代には、軍人チェーザレ・ボルジアに、芸術家としてではなく軍事技術者として仕えます。最晩年はフランス王フランソワ1世の国王づきの芸術家・技師として迎えられ、アンボワーズ城に隣接するクロ・リュセ城に住み、そこで息を引き取りました。レオナルドの墓はアンボワーズ城内の教会にありますが、本当に埋葬されているのかは実証されていません。レオナルドの手稿フレンツェから40キロほど離れた自然豊かなヴィンチ村に生まれたレオナルドは、幼少期から自然観察に没頭しました。のちにレオナルドは、自然界には輪郭がないことから、輪郭を描かずに絵を描く「スフマート(ぼかし)技法」を発明します。ほかにも「遠くのものは青みがかって見える」という発見から、遠近を色彩のグラデーションによって表す「空気遠近法」を開発します。これらの技法は、子供の頃から親しんだ自然の観察から生まれました。レオナルドが追求した遠近法や、自然を写し取るリアリズムの手法は、レオナルド以前にはみられない独創的なものでした。レオナルドは「手稿」と呼ばれる膨大なメモを残しており、その数は13000枚にのぼります。手稿はさまざまま考察や覚書き、スケッチ、機械や施設の設計図、さらに30年にわたってとりつかれたという、人体解剖についての詳細な記録も含まれます。とくに、人間の筋肉や臓器、頭蓋骨などを精密に描写した人体解剖図や、鳥の観察から発明した空飛ぶ船(ヘリコプター)のスケッチなどが有名です。レオナルドは生涯のうちに何度か、その手稿を体系的にまとめようと試みましたが、ついに完成することはできなかったということです。レオナルドの手稿は、のちに『絵画論』『人生論』などにまとめられて出版されました。そのため、レオナルドの名言が多く伝わっています。『人生論』からいくつかを紹介します。「幸福」が来たら、ためらわずに前髪をつかめ、うしろは禿げているから。穴を掘るもののうえに、穴は崩れる。必要であればあるほど拒まれるものがある。それは忠告だ。脅迫とは、ひとえに脅えた者の武器にすぎない。レオナルドは「手稿」を残す際に、文字を「鏡文字」で書きました。「鏡文字」とは、文字を左右に反転させて、進行方向も逆にして文字を綴ってゆく書き方のことです。この鏡文字は、レオナルドが自分の考えを他人に読ませないために暗号のように使っていた、などと解釈されることがありましたが、現在はその説は否定されています。「鏡文字」については、一種の学習障害であったとの説があります。レオナルドは計算や、外国語を覚えることが苦手たったこと、あれこれと同時に手を広げてしまい、最後まで完成させることができなかったことなどがわかっており、これらは学習障害にみられる症状と一致します。アインシュタインも暗記ができなかったことがわかっていますが、レオナルドの天才肌や一般的でない側面は、脳の機能にも要因があったのかもしれません。『受胎告知』ウフィツィ美術館(フィレンツェ)『受胎告知』は、古くから西洋絵画で繰り返し描かれた、大天使ガブリエルが聖母マリアにイエスの受胎を告げる人気のテーマです。レオナルド初期の傑作とされる『受胎告知』は、それまでの形式を覆し、風景が大きな割合を占め、書き込まれた花や人物が徹底したリアリズムで描かれています。特にガブリエルが手にしている、純潔の象徴である百合の花は現実の花のように丁寧に描かれ、植物の一つ一つが装飾としてではなく、精密な植物画のように描かれています。このような表現もそれまではなかったものでした。死者の木である4本の杉の木は、イエスの運命を示しています。『ウィトルウィウス的人体図』アカデミア美術館(ヴェネツィア)最も有名なレオナルドのドローイングが『ウィトルウィウス的人体図』です。手稿のメモには、「ウィトルウィウスが提唱した理論を表現した」と書かれており、古代ローマ時代の建築家ウィトルウィウスが書いた『建築論』の記述をもとに書かれました。『建築論』の中の、人体の比率と宇宙の比率との調和が語られた部分である、人間が四肢を広げると円に接し、両足をつけて立つと正方形に接するとする記述を表しました。レオナルドは、人体の尺度は万物の基準となると考え、人体の計測を綿密におこない、それは解剖学につながりました。『最後の晩餐』サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(ミラノ)『最後の晩餐』は、人物の配置と動きなどの表現が、それまでの絵画に比べて斬新でした。通常、裏切り者のユダは、それとわかるように一人だけ別に描かれることが多かったところを、レオナルドは他の弟子と同列に置きました。さらに、裏切り者がいると告げたイエスの言葉から、12人の使徒に動揺が広がる様子が、それぞれの人物の体の動きや表情によって、臨場感を持って表現されています。『サルバトール・ムンディ』ルーヴル・アブダビ(アブダビ)『サルバトール・ムンディ』(救世主の意)は、1500年頃に描かれたとみられ、18世紀末から行方不明になっていました。2005年に美術商が買い取ったときには状態が悪く、修復したところレオナルドの真作と判断されました。2017年にかけられたクリスティーズのオークションでは、500億円余りで落札され、美術品における過去最高の落札額となりました。『サルバトール・ムンディ』は謎めいた表情から「男性版モナ・リザ」とも呼ばれています。『モナ・リザ』やレオナルドの他の作品と同様に、手の表情が印象的です。『モナ・リザ』(1503年~1506年頃から制作) ルーヴル美術館(パリ)レオナルド最大の謎とされ、また世界で最も有名な絵画が『モナ・リザ』です。レオナルドの伝記や、当時に絵を見た人の記録などの研究から、モデルとされる候補者は10人ほどいますが、決着はみていません。モデルの謎に加えて、この『モナ・リザ』の絵は、レオナルドが生涯において手放さず、没する直前まで手を入れ続けたことも憶測を呼んでいます。スフマート技法で描かれた威厳のある謎めいた微笑みが、『モナ・リザ』の謎を深めています。『洗礼者ヨハネ』ルーヴル美術館(パリ)レオナルドが晩年に描いた『洗礼者ヨハネ』は、何かを訴えるような不思議な表情と、人差し指を上に向けた手が、謎をかもしだしています。ヨハネのモデルは、弟子のサライだと言われています。レオナルドがよく用いた、指で何かを指す仕草と、男性とも女性ともつかない人物像、そしてその謎めいた表情がよく表れた作品です。レオナルド・ダ・ヴィンチは、絵画や建築に優れた功績を残し、あわせて斬新な構想による機械の発明などを、おびただしい数の手稿に残しました。その才能の多彩さは「万能の天才」と評され、またレオナルドの姿形も大変に美しかったといわれます。レオナルドの生涯や作品には謎めいたところが多く、さまざまな謎解きがされています。ダン・ブラウンの小説『ダ・ヴィンチ・コード』では、『最後の晩餐』に描かれたヨハネはマグダラのマリアであり、イエスと恋愛関係にあったとして、その暗号がこの絵に隠されているとする構想が示されました。また、映画の『ダ・ヴィンチ・コード』では、ルーヴル美術館館長ジャック・ソニエールが、『ウィトルウィウス的人体図』を模した姿の遺体で発見されるという場面もありました。近年、表に出てきた『サルバトール・ムンディ』も、新たな伝説を生んでゆきそうです。©Copyright
レオナルド・ダ・ヴィンチ((伊: Leonardo da Vinci、イタリア語発音: [leoˈnardo da ˈvintʃi] 発音 )1452年4月15日 - 1519年5月2日(ユリウス暦))は、イタリアのルネサンス期を代表する芸術家。フルネームはレオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ (Leonardo di ser Piero da Vinci) 。「ダ・ヴィンチ」とはヴィンチ村出身であることを意味しており、個人名の略称としては「レオナルド」を用いるのが適切である。音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地 … 『ウィトルウィウス的人体図』(ウィトルウィウスてきじんたいず、羅: Homo Vitruvianus、伊: Uomo vitruviano)は、古代ローマ時代の建築家ウィトルウィウスの『建築について』(以下、『建築論』)の記述をもとに、レオナルド・ダ・ヴィンチが1485~1490年頃 に描いたドローイングである 。紙にペンとインクで描かれており、両手脚が異なる位置で男性の裸体が重ねられ、外周に描かれた真円と正方形とに男性の手脚が内接しているという構図となっている。このドローイングは、「プロポーション … ルネサンス期を代表する芸術家であり、「飽くなき探究心」と「尽きることのない独創性」を兼ね備えた人物といい、日本の美術史では「万能の天才」といわれている1452年4月15日、レオナルド・ダ・ヴィンチは、1466年頃、レオナルドは、当時、フィレンツェにおいて、最も優れた工房の1つを主宰していたフィレンツェの画家で、彫刻家でもあった画家としてのキャリア初期には、レオナルドは多才な人物だったが、存命中から現在にいたるまで、画家としての名声がもっとも高いレオナルドは科学的創造力の面でも畏敬されているレオナルドは1452年4月15日(レオナルドの「姓」であるダ・ヴィンチは、「ヴィンチ(出身)の」を意味する。出生名の「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」は、「ヴィンチ(出身)のセル(父親メッセルの略称)の(息子の)レオナルド」という意味となるレオナルドの幼少期についてはほとんど伝わっていない。生まれてから5年をヴィンチの村落で母親とともに暮らし、1457年からは父親、祖父母、叔父フランチェスコと、ヴィンチの都市部で過ごした。レオナルドの父親セル・ピエロは、レオナルドが生まれて間もなくアルビエラという名前の16歳の娘と結婚しており、レオナルドとこの義母の関係は良好だったが、義母は若くして死去してしまっているレオナルドの幼少期は様々な推測の的となっている1466年に、14歳だったレオナルドは「フィレンツェでもっとも優れた」工房のひとつを主宰していた芸術家ヴェロッキオの工房で製作される絵画のほとんどは、弟子や工房の雇われ画家による作品だった。ヴァザーリはその著書で『キリストの洗礼』(レオナルドは20歳になる1472年までに、1476年のフィレンツェの裁判記録に、レオナルド他3名の青年がヴァザーリの著書によると、レオナルドは才能溢れる音楽家でもありレオナルドは1482年から1499年まで、ミラノ公国で活動した。現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する『レオナルドはミラノ公ルドヴィーコから、様々な企画を命じられた。特別な日に使用する山車とパレードの準備、1499年に1502年にレオナルドはレオナルドは再びフィレンツェに戻り、1508年10月18日にフィレンツェの芸術家ギルド「聖ルカ組合」に再加入した。そして、フィレンツェ政庁舎(1506年にレオナルドはミラノを訪れた。レオナルドは1516年にフランソワ1世に招かれ、フランソワ1世の居城レオナルドは1519年5月2日にクルーの館で死去した。フランソワ1世とは緊密な関係を築いたと考えられており、ヴァザーリも自著でレオナルドがフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったと記している。このエピソードはフランス人芸術家たちに親しまれ、レオナルドの死後20年ほど後に、フランソワ1世が「かつてこの世界にレオナルドほど優れた人物がいただろうか。絵画、彫刻、建築のみならず、レオナルドはこの上なく傑出した哲学者でもあった」と語ったことが、彫金師、彫刻家レオナルドが若年だった当時のフィレンツェは、また当時のフィレンツェは、写実的で感情豊かな人物像をマサッチオの『楽園追放』(1425年ごろ、ブランカッチ礼拝堂壁画、フィレンツェで伝統的に好まれていた絵画分野に、レオナルドはボッティチェッリとギルランダイオは、ローマ教皇レオナルドがヴェロッキオの工房で働いていた時期の1476年に当時の代表的な建築家レオナルドがフィレンツェに在住していたときのフィレンツェの支配者はレオン・バッティスタ・アルベルティの紹介を受けてメディチ一族の邸宅を訪れたレオナルドは、哲学者で「レオナルドはその生涯を通じて、異常なまでの創意工夫の才を示し続けた。ヴァザーリはレオナルドを「ずば抜けた肉体美」「計り知れない優雅さ」「強靭な精神力と大いなる寛容さ」「威厳ある精神と驚くべき膨大な知性」と評し交友関係以外のレオナルドの私生活は謎に包まれている。とくにレオナルドの性的嗜好は、さまざまな当てこすり、研究、憶測の的になっている。最初にレオナルドの性的嗜好が話題になったのは16世紀半ばのことだった。その後19世紀、20世紀にもこの話題が取り上げられており、中でも「小悪魔」を意味する「サライ」という通称で知られるレオナルドは1506年に近年の研究ではレオナルドの科学者や発明家としての才能が高く評価されているが、400年以上にわたってレオナルドがもっとも賞賛されてきたのは画家としての才能である。現存するレオナルドの真作、あるいはレオナルド作であろうと考えられている絵画作品は僅かではあるが、1490年時点で「神の手を持つ」画家だと言われておりレオナルドの作品は、様々な出来の多くの模写が存在することでも有名で、長年にわたって美術品鑑定家や批評家を悩ませ続けてきた。レオナルドの真作に見られる優れた点は顔料の塗布手法だけでなく、解剖学、光学、植物学、地質学、人相学などの詳細な知識に立脚した、革新的な絵画技法である。人物の表情やポーズで感情を描写する技法、人物の配置構成における創造性、色調の繊細な移り変わりなど、レオナルドの絵画作品には際立った点が多くみられる。これらレオナルドの革新的絵画技法の集大成といえるのが『モナ・リザ』、『最後の晩餐』、『岩窟の聖母』であるレオナルドの画家としてのキャリアは、師ヴェロッキオとの合作『キリストの洗礼』に始まる。ほかにレオナルドの徒弟時代の作品として、2点の『受胎告知』がある。そのうち1点は縦14レオナルドは1480年代に、非常に重要な絵画2点の制作を引き受け、ほかに革新的な構成をもつ重要な絵画1点の制作を開始した。これら3点の絵画のうち2点は未完に終わり、残る1点が完成度合いや支払を巡って長い論争となった。未完に終わった絵画のうちの1点が『荒野の聖ヒエロニムス』で、美術史家リアナ・ボルトロンはこの絵画がレオナルドが不遇だった時代の作品ではないかとしており、その根拠としてレオナルドの日記の「生きることを学んできたつもりだったが、単に死ぬことを学んでいたらしい」という記述を挙げている『荒野の聖ヒエロニムス』は描き始めの時点で放棄された作品だが、極めて異例な構成をもって描かれている『荒野の聖ヒエロニムス』と同様に、大胆な構成、風景描写、さらには人間模様が描かれているのが『東方三博士の礼拝』(1481年、この時期に描かれたもうひとつの重要な絵画が『レオナルドが1490年代に描いた絵画作品のなかでもっとも有名な作品は、ミラノのレオナルドの同時代人のイタリア人著述家完成した『最後の晩餐』は、構成、人物表現ともに非常に優れた作品だと評価されたがレオナルドが16世紀に描いた小規模な肖像画で、その他『モナ・リザ』の特徴として、飾り気のない衣装、うねって流れるような背後の風景、抑制された色調、極めて高度な写実技法などが挙げられる。これらの特徴は顔料に油絵の具を使用することによってもたらされたものだが、絵画技法はテンペラと同様な手法が用いられており、画肌表面で顔料を混ぜ合わせた筆あとはほとんど見られない自然の風景の中に人物像を描くという『レオナルドは多作な画家ではなかったが、多くのデッサンやドローイングを残しており、その実在の人物をモデルとしていると思われるものの、大げさに誇張して描かれた「以下は、記事本文中で使用している絵画作品以外の、レオナルドの「真作 (『『『『音楽家の肖像』、1485年頃(諸説あり)、『『『『救世主』、1504年 - 1507年頃(諸説あり)、プライベートコレクション