自分の名字を調べると昔の身分がわかる!?名家や貴族の名字とは。 関連記事. 源平藤橘を5分でおさらい!あなたの名字は何氏の流れ? 受付時間 9:00~20:00 源平藤橘を5分でおさらい!あなたの名字は何氏の流れ?奈良時代から平安時代にかけて権威を振るった「源平藤橘」をご存知でしょうか。「げんぺいとうきつ」と読むのですが、人名ではなく源氏・平氏・藤原氏・橘氏をまとめた呼び名で「四大姓」とされています。公家や武家では、現代わたしたちが名乗っているような名字とは別に、朝廷(天皇)から下賜された「氏」を持っていました。それがこの四大姓のような氏で、名字とは違って公式なため「本姓(ほんせい)」と呼ばれています。源氏・平氏・藤原氏は日本史のメインストリートを歩んだの対し、橘氏はちょっと少数派だったのかもしれません。そんな「源平藤橘」をご紹介しましょう。目次まずは圧倒的な存在感がある「源平」について。「源平の合戦」「平家物語」「源氏物語」といった源平に関する史実や物語はあまりにもドラマティックで、内容はともかくタイトルを知らない日本人はいないでしょう。ここでちょっとした疑問を抱いている方も多いと思います。なぜ源は「氏」で平は「家」なのでしょうか?このモヤモヤも最初に解消させて話を進めたいと思います。本姓である氏とは、皇族が臣籍、つまり天皇の家来・仕える者に下る「臣籍降下」にあたって下賜された姓でした。天皇や皇族は姓を持たなかったので臣下となる際に「姓」をつける必要があったのです。源姓を名乗った一族はたいへん多かったため、源家の総体として源氏と呼ばれていました。一方平家とは、政権を打ち立てた平清盛とその一族、さらには仕えている者たちも含めた政権・軍事の一団のことをいいます。そのため、平家の中には清盛らに仕えていた藤原氏や源氏の武士もいたのです。平家とは平氏の中の一部でありながら、平氏以外の外部の者も多くいたというわけでした。源氏も平氏もどの天皇の子孫が臣籍降下したかによって、さまざまな流派がありました。平氏は4流派、源氏においては21も流派があったと言われ、家系図も各流派ごとに作られており、天皇家との関係や女系にまでおよぶと複雑さを極めていたとされています。また、臣籍降下した元皇族の格や天皇との距離によって微妙な力関係が生まれ、宿怨となり戦にまで発展することがありました。「源平の合戦」に至った両者の宿怨とは、このように臣籍に下りた氏族であるという同等の格による強いライバル関係に因るところが根底にあったとされています。しかし、臣籍降下した皇族は、平氏において天皇の孫以降の代が多かったことから、源氏の方が格上とする見方もありました。このことに因る優越感と劣等感のアンバランスさも、源平両氏の運命を左右したのではないかとされています。「源氏」という姓の由来は諸説ありますが「皇族に『源(みなもと)』を発する」というのが有力な説のようです。起源は平安時代初期、弘仁5(814)年に嵯峨天皇がその皇子・皇女8人に賜って臣下としたのに始まるとされています。源氏の代表的な流派といえば「清和」「宇多」「村上」「花山」が有名です。上でも触れた通り源氏には21もの流派があったとされているほどその系譜は複雑で、その末裔まで辿ると全国各地に分散しているのかもしれません。源氏の中でもっとも有名なのは、やはり平家を滅ぼし鎌倉幕府を開いた源頼朝ではないでしょうか。その頼朝は清和源氏の流れをくんでいます。清和天皇の皇子、貞純親王の子、源経基に始まる清和源氏の子孫は摂津・大和・河内・美濃・三河に栄えました。頼朝は、現在の大阪南部を支配していた河内源氏の出です。ほかにも足利・新田・武田・佐竹といった後の世を賑わす諸氏も河内の流れをくんでいるとされているほど、河内源氏は源氏のスター集団だったと言って間違いないでしょう。詳細は不明ですが、明智光秀は源氏の末裔。武田信玄は甲斐源氏の流れをくんでいますが、徳川家康が源氏嫡流を主張しているのは疑問があるとする説もあります。「平氏」の「平」の由来についても諸説あるようですが、有力なのは平氏4流派の中でもっとも古い「桓武平氏」の祖である桓武天皇が建てた「平安京」に因んだとするものです。その起源は桓武天皇の皇子葛原(かずらはら)・万多(まんだ)・仲野(なかの)・賀陽(かや)の4親王の子孫に平姓が与えられて臣籍降下したのに始まることから平安時代初期、700年代終盤から800年代初頭の頃とされています。4つの流派は「桓武」「仁明」「文徳」「光孝」ですが、葛原親王の子高見王の子孫である「桓武平氏」がもっとも栄えました。高見王の子高望王の子孫は東国で武士として勢力を張りましたが、平将門による天慶の乱以降衰えてしまいます。それでも高望王の子、良文・良茂の子孫は広く関東一円で「坂東八平氏」と称される武士団を組織して鎌倉幕府の創立に貢献しました。一方、将門に討たれた国香の孫である維衡は伊勢に勢力を広げて「伊勢平氏」と称され平氏の中心となります。この流れから正盛・忠盛を経て清盛が出て平氏の枠を超えて平家を組織し、保元・平治の乱で源氏を追放すると平氏全盛の時代を迎えることになりました。しかし1185年に「壇ノ浦の戦」で源氏によって滅ぼされてしまいます。その後、国香の流れをくむ後北条氏は東国に土着し、鎌倉幕府の有力な御家人となって源家将軍が断絶した後には幕府の実権を握るまでに隆盛しましたが、豊臣秀吉の攻撃で滅ぼされてしまいます。結局、桓武平氏の流れでは大名・豪族として残れませんでした。続いては「源平藤橘」の中で最大・最古の一族「藤原氏」です。そのルーツは天神地祇であるアメノコヤネノミコトの後裔と伝えられており、まさに神話の世界から続く由緒ある家系です。起源は天智8(669)年に中臣連鎌足が大化改新に尽くした功績を讃えられ天智天皇から「藤原」の姓を賜わって藤原鎌足となったこととされています。鎌足の子不比等(ふひと)が律令体制を推進し、娘の宮子を文武天皇夫人に、光明子を人臣として初めて皇后に立てて権力を振るいました。その後不比等の子である武智麻呂が南家、房前が北家、宇合が式家、麻呂が京家を開いて「藤原四家」を成立させますが、結局北家が有力となって隆盛していきます。平安時代以降、摂政・関白・太政大臣を多く輩出し、藤原道長・頼通の頃に全盛期を迎えました。ちなみに、源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏も、忠臣蔵の主人公、江戸時代の赤穂藩家老・大石内蔵助も北家に発した藤太流藤原氏といわれています。平安末期になると家内の抗争や不和で摂関家が分裂し近衛家・九条家を興し、鎌倉時代には二条・一条が別れ、新たに鷹司家が興って「五摂家」となりました。以後摂政・関白を立てて江戸時代末期に至ります。明治維新後は「五摂家」に次ぐ家格にあった上層公家の多くは華族に、五摂家は公爵に列せられました。「源平藤橘」の最後を飾る「橘氏」。始祖は6世紀後半の敏達天皇とされています。橘姓を最初に下賜されたのは、女帝・元明天皇の子、県犬養(あがたのいぬかい)三千代。文武天皇の乳母を務めた功により、708年に橘宿禰の氏姓を賜り橘三千代を名乗りました。三千代と敏達天皇の後裔である美努王の間に生まれた子、葛城王が臣籍降下した橘諸兄は、橘氏の中で最も有名な人物と言っていいでしょう。諸兄以降の子孫も橘姓を名乗るようになりました。橘氏の絶頂期は、藤原不比等の息子たち「藤原四卿」の死没後に諸兄が躍進して一気に正一位・左大臣まで昇進したタイミングで735年頃のことです。その後しばらくは、橘氏から公卿を輩出することはなく衰退していましたが、世継ぎした諸兄の子、奈良麻呂の孫娘、嘉智子が嵯峨天皇の(檀林)皇后となると、橘氏は再び地位を上げることができました。奈良麻呂の孫、常主が約70年ぶりに公卿となり、檀林皇后出生の皇子が仁明天皇に即位すると、嘉智子の兄、氏公が右大臣へと出世を果たします。嘉智子の影響力が及んだ9世紀前半のこの時期が橘氏にとって第二期黄金時代です。9世紀半ばから10世紀後半に掛けては7人の公卿を輩出し、安定した勢力を確保していました。しかし、983年に亡くなった恒平を最後に橘氏公卿は絶えてしまい、その後は地方に土着するか、衰退の一途を辿り下級官人として細々と家系を継いでいくのに留まっています。さて、「源平藤橘」の血統を引き継いでいる日本人はいったいどのくらいいるのでしょうか。もっとも古い藤原氏とそれに次ぐ橘氏は起源から1300年以上、源平でも1200年が経っています。仮に一代を30年とすればそれぞれの起源にいたるまでは40代以上を数えることになるでしょう。単純計算で直系の先祖を20代遡ると104万人、30代遡れば1073万人に、40代遡れば先祖の数は1兆人を有に超えてしまいます。そう考えれば、誰しも自分の先祖には「源平藤橘」のいずれか、あるいはすべてがいて、自分はその血を引いているんだ、と思うに違いありません。血筋の根拠としては名字に目を向けてみるのもいいでしょう。「『◯藤』という名字は藤原氏の末裔である」という話を耳にしたことがある方も多いと思います。すべてがそうとは限りませんが、重要なヒントとなりそうです。平安時代の朝廷では藤原氏の一族が席巻していたため、要職ではない庶民に近い藤原氏の者は、拠点とする土地の名前や職業の一文字と「藤」を組み合わせた名字を作ったとされています。例えば伊勢に領地があれば「伊藤」、近江では「近藤」、遠江の「遠藤」、加賀の「加藤」、肥後・備後・越後・丹後・豊後・筑後などの「後藤」、佐渡・佐野などの「佐藤」、武蔵の「武藤」など数多く見受けられるでしょう。また、「佐藤」は皇居を警備する武官「左衛門尉」の「左」から発祥していたり、伊勢神宮にいる皇女斎王に奉仕する斎宮寮の長官を務めたものが「斎藤」となったり、木工寮から「工藤」、修理少進の「進藤」など、職業に由来する「◯藤」も多かったようです。源氏・平氏・橘氏では、藤原氏の藤のように目印となっている名字はありませんが、特定の苗字がそれぞれをルーツにしていることがわかっています。もちろん明治3年に庶民が名字を持つことを許された際に、名家やメジャーな名字を勝手に拝借するということも多かったので、その名字が必ずしも由緒ある血統を引き継いでいるわけではありません。あくまでも代表的な例ということでご紹介するので、参考にしていただきたいと思います。あなたや身近な方の名字もあるのではないでしょうか。ここに挙げたのは、ほんの一例といっていいかもしれません。この機会にご自身の名字のルーツを調べてみてはいかがですか。「源平藤橘」との繋がりが見えてくると、先祖に対する興味も深くなることでしょう。「家系図を作ってみよう」と思ったり「今ある家系図をもっと深掘りしてみよう」と行動を起こしたりするいいきっかけとなるに違いありません。【総集編】家系図の作り方のまとめ。自分で作るコツとは?名字の歴史と由来。自分の名字はいつから始まったのか?自分の先祖が武士なのか知りたい!場合の調べ方もう家系図が作れなくなる!?覚えておきたいタイムリミット自分の名字を調べると昔の身分がわかる!?名家や貴族の名字とは。軍歴証明書の取り方を詳しく解説!自分の先祖が武士なのか知りたい!場合の調べ方現地に行ってご先祖探し!現地調査の方法を解説します!お問い合わせはお気軽に!
<本社>Copyright © 2017-2020 家樹 All Rights Reserved. å®¶ç³»å³ä½æãµã¼ãã¹æ´å²äººç©å®¶ç³»å³ãµã¤ãå æ¤ç´¢ しかし、この平氏をルーツとする織田家の系図は創作とみられています。 信長自身が家督相続前の 天文18(1549)年 の時点で熱田八か村に宛てた禁制に「藤原信長」と署名している。; 同族で守護代であった織田達勝も「藤原達勝」と署名している(『熱田神宮所蔵文書』『円福寺文書』)。 【主な源氏と平氏の起こり】 平安時代に安定した皇位継承のために多くの皇子をもうけることが行われていましたが、それら多くの皇族に所得を与えることが財政的に困難になってきたため、皇位継承の可能性がなくなった皇族たちに姓を与え臣下の身分に降下させるようになりました。 「家系図の書き方」の解説記事 美しい家系図の書き方・基本ルールをプロが徹底解説! どれほどの数の家系を調べるのか?という問題. 「桓武平氏 」–関・長崎 ... 「家系図の作り方 ... もう家系図が作れなくなる!?覚えておきたいタイムリミット . 平氏(たいらうじ、へいし)は、日本の氏族のひとつ。 姓(カバネ)は朝臣。 日本において皇族が臣下に下る(臣籍降下)際に名乗る氏の一つで、有名な桓武平氏を含め4つの流派がある。 家紋は揚羽蝶を中心に使用した。 この記事では家系図作成専門会社が家系図作りに特化した戸籍の取り方、家系図の調べ方を解説します。戸籍を取るといっても相続手続を目的にした場合と家系図作りを目的とした場合では方法や難易度が大きく変わります。 そのまんまです笑。年代・為政者の型を覚えた部分に、付け加えるように覚えましょう! 信長の死後、織田の家紋は二男信雄とその子孫に引き継がれており、江戸時代に幕府に提出された『寛政重修諸家譜』によると、織田氏の家紋は以下の7つがあるという。上記7つの家紋うち、信長が使用したものがどれか、実はハッキリしていないのであるが、以下にそれぞれの家紋を詳細にみてみよう。
鎌倉時代辺りの歴史上人物の覚え方で良い覚え方はありますか? 天皇や源氏や平氏... 受験し終わってからお祈りをする意味ありますか? 清和源氏の家系図のいい覚え方ないですかね? センターで日本史を受けますが、あと2ヶ月ちょっとしかありません。
å®¶ç³»å³ä½æãµã¼ãã¹æ´å²äººç©å®¶ç³»å³ãµã¤ãå æ¤ç´¢ 明治維新時、137家ある堂上家のうち93家が藤原北家である(他は源氏18家、菅原氏6家、平氏5 ... (なお、嫡流を書き連ねることとし、傍系は下記の系図の下に記載する。また養子はあえて記載せず。) 北家本流(摂関家流) 魚名流. 平氏ときたら源氏。 「清和源氏(せいわげんじ)」の登場です。 清和天皇の皇子から4人、孫から12人が「源(みなもと)」の姓を賜い … 鎌倉時代は源氏・平氏の家系図などを暗唱できるようにすることです! 現代でいうと、総理大臣を順番に暗記することと同じですね! ③「 主な出来事の型 」 とは. 皇室および諸氏・諸家の系図を集成した書物。飯田忠彦が編集したものとみられる。内閣文庫本は百三冊。ただしもとこれと一具をなしたと思われる一冊が東大史料編纂所に蔵せられ、現伝の形で完具するか否か一考の余地がある。成立年代は本文に安政四年(一八五七)までの記事を含むことや 清和源氏系図 (画像は「清和源氏の系図」家系図作成本舗より) 源氏の登場. 【桓武平氏】 第50代桓武天皇の流れをくみ、臣籍降下(しんせきこうか)により平姓を賜った一族です。 平氏の由来は桓武天皇が築いた平安京にちなむとの説が有力です。 一般に平氏といえば、この桓武平氏 … ギリシャ神話の神々の家系図も、 少しだけ、 わかりやすくなった 気がした、友人と私でした。 そう言えば、昔読んだ本の中に、 アンドロメダ座のお話で、母親のカシオペアが ポセイドン の怒りを、買った話がありました。 まずは圧倒的な存在感がある「源平」について。「源平の合戦」「平家物語」「源氏物語」といった源平に関する史実や物語はあまりにもドラマティックで、内容はともかくタイトルを知らない日本人はいないでしょう。ここでちょっとした疑問を抱いている方も多いと思います。なぜ源は「氏」で平は「家」なのでしょうか?このモヤモヤも最初に解消させて話を進めたいと思います。本姓である氏とは、皇族が臣籍、つまり天皇の家来・仕える者に下る「臣籍降下」にあたって下賜された姓でした。天皇や … 【戦国の七雄の覚え方】簡単!語呂合わせを紹介【おすすめ3選】 に グラックス兄弟 より 【壬申の乱の語呂合わせ】年号(672年)の覚え方を紹介!【おすすめ8選】 に 渡部誠儀 より 【西南戦争の覚え方】年号(1877年)の語呂合わせを紹介!